人生の師(母)M005
天に帰るときでさえ、何一つ不安と恐怖はなく、一番嫌がっていた痛みもほとんど感じることなく、自分が希望した通り闘病生活も短期間であり、本人としてはしあわせだったのではないかと思っています。息子としても母の苦しむ姿を見ることなく送ることができたことはよかったのではないかと思います。この世を去るまでしあわせな人生でした。
私にとって母はしあわせな人生を送るための一番身近な人生の師であったと亡くなって気が付きました。私が母を見ていて気付いたしあわせである秘訣は、
・自分の気持ちに正直で、面白そうと思ったことは何でも積極的にチャレンジする。
・出来事のネガティブな面を見るのではなく、ポジティブな面を見られるようにする。
(我々はネガティブな面に目が行きがち)
・自分が面白いと感じることを他人と共有する。
(押し付けにならないように気を付ける)
・こうなりたい自分を宣言して実行する。
(ピンピンコロリが一番といつも言って、いつも健康には気を付けていた)
ではないかと推測します。私も母を見習ってこれらのことを実行してみようと思います。
母についてのブログは一旦これで終わりにしますが、また何か思い出したら記載するようにします。
ディスカッション
コメント一覧
覚之輔さんのブログを読んで、お母様とお会いしてお話ししたくなりました。
信仰があるということは自由であると言われます。私はその自由をまだ十分に享受できていません。
お母様は、自分の思う様に生きたのでしょうか?
妻であり、母であり、そんなある意味では制約の中で生きながらも自分の思うように生きることができたのだとしたら、それはとても幸せだと思いました。
自分の願いを告白しながら生きる。
その様な自由さを手にしつついきたいなぁ、と思いました。
Lilicoさん、「覚之輔としあわせ探し」のホームページを開設して以来初めてのコメントありがとうございました。大変うれしく思います。ご質問に対してコメントさせていただきます。
「お母様は、自分の思う様に生きたのでしょうか?」の質問に対する一番近くで見ていた息子である覚之輔の答えは”はい”です。
晩年はガンが見つかる前でも、見つかってからでも「何一つ思い残すことは無い」と言っていました。
もちろん、普通の人ならいやだと思うことはたくさんあったと思いますが、母のアンテナは人が嫌だと思う方には向いておらず(「人生の師(母)M002」で述べさせていただきましたが)、その中でも幸せと思える小さなことにアンテナが向いているのではないかと思います。
両親は周りの人なら誰でも知っているおしどり夫婦でした。母は父のことが大好きでいつも自慢していました。しかし、18年前母が62歳の時に父は67歳でガンでなくなりました。仕事も一段落し、第二の人生のスタートを一緒きるはずでしたが、かなわぬ夢となりました。もちろん母はとても悲しんでいましたが、その後の気持ちの切り替えはとても速かったと思います。過ぎたことをいつまでもくよくよ考えていても仕方ないと思ったに違いありません。最愛の父がいなくなっても、「人生の師(母)M003」に書いたように高齢者向けマンションで楽しく過ごしていました。
覚之輔の個人的な見解ですが「人生の師(母)M005」に書いた「こうなりたい自分を宣言して実行する。」ことである程度思い通りの人生を歩めたのではないかと思っています。
覚之輔も子供のころから母のような人生をとてもうらやましく思っていました。
Lilicoさんのご質問の意図に合ったコメントになっていればよいのですが。
本業のサラリーマンを行いながらとなりますので回答が遅くなる時があるかもしれませんが、その際にはご容赦いただけると幸いです。
覚之輔
覚之輔さま
ご多忙の中ご返信ありがとうございます。
息子にここまで尊敬され、母のようになりたいと思われるお母様はとてもお幸せだったのだろうなぁ、と感じました。
因みにですが、切り替えが早いというのは、なんというか割り切りが良い、お父さんのこともう忘れちゃったの?とかは思われませんでしたか?
とても自慢されていた夫婦関係もとても素敵です。お母様が悲しみを持ちつつどの様な思いで気持ちを切り替えたのか興味が湧きました。
父が亡くなったことを、いつまでも悲しむことはありませんでしたが、父を忘れたわけではありませんでした。何かにつけ父が話題にあがっていました。母は依存したくないといつも思っているようでした。友達はたくさんいましたが、特定の友人とべったりという付き合い方はしていなかったように思います。それは息子に対してもそうで、老後に息子の世話になることは想定しておらず自ら進んで高齢者向けマンションに入所していました。
覚之輔