なぜあの世とこの世があるのか(その1)W004

2020年12月27日

 あの世という世界があるらしいということはなんとなく分かったような気がしますが、なぜあの世とこの世があるのかという疑問が湧いてきます。なぜこのような仕組みになっているのでしょう?この疑問は古今東西で問われてきた疑問であり、多くの書籍などで取りあげられています。私がこれらに関連する書籍やインターネットで得た情報から自分なりの考えをまとめてみました。

 もともとの世界は神様のみしか存在しない世界でした。このもともとの世界は神様しかいません。神様は全てであり、なんでも知っていて、なんでもできる存在です。完璧であり、最良であり、最善なのです。比較するものがない絶対と呼ばれる状態です。全ては一つであり、分離は存在しません。この状態で十分なのですが、より神であることを知りたいと神様は思ったのです。そこで考えた方法が自分ではないものを作るということでした。自分しかいないので自分を十分実感することができなかったのです。どういうことかといえば、例えば生まれてから一度も病気や怪我もしたことがなくいたって健康だとしましょう。そうすると自分は健康であることはわかりますが、健康であることが実感できません。病気や怪我をして健康でない状態を経験していないと、健康であることが実感できないのではないでしょうか。それと同じように神様は神様であることを実感したかったのです。そのためにこの世を作りました。この世は絶対の世界ではなく、神様を無数の小さな部分に分けて無数の選択肢を創り、比較できるようにした相対の世界です。この相対的な世界を創った目的は比較を可能にすることでした。病気を知らなければ、健康を知りません。小さいを知らなければ、大きいを知りません。寒いを知らなければ、熱いを知りません。悪を知らなければ、善を知らないのです。神様が存在する世界は神様しかいない絶対の世界(あの世)ですので、比較ができる相対の世界はいわば仮想の世界です。説明の仕方を変えると、神様は善です。神様の世界には善しかないのです。善を実感するために悪が必要なのですが、善しかないので仮想の世界(この世)で悪というものを創ったのです。ですので、悪は存在しないのです。悪はあくまでも仮想です。(笑)

 バラバラにしても神様であることに違いはありません。神様が神様でなくなることはできません。これでは目的が達成されないと考えた神様はこの世にくる時には自分が神様であることを忘れることにしたのです。これにより、自分が神様であることを忘れ、神様でないものが存在する仮想世界では、無数の選択肢があり、比較が可能となりました。この仮想世界(この世)に自分が神だと忘れた状態で来ることで、神様であることを体験的に知ることができるようになりました。